気が付けば、夜。 2001-10-21 - へびあし。


_ 気が付けば、夜。 2001-10-21

本日は、ハードスケジュールでした。

昼から「第十一回 ときめきフェスタ福岡」に行き、「ときめきフォーラム」に参加した後、ケルト・アイリッシュ音楽祭で『ルナサ』の演奏を聴いてきました。

帰ってきたら、一日が終わりつつある~(涙)

「ときめきフェスタ福岡」とは、障害のある人とない人の触れ合いをを深めるために開催されるイベントです(実行委員会発行の資料によると・・・)。

福岡市役所の広場にて、車椅子や盲導犬の福祉体験コーナーや様々な体験コーナー、軽食の販売などがおこなわれていて、午後から講堂で「ときめきフォーラム」が開催されました。

「かがやいて生きる」をテーマに障害者の発表とパネルディスカッションが「ときめきフォーラム」の内容でした。

パネルディスカッションの中である方がこんなことをおっしゃいました。

「障害者は、仕事に手抜きがない。ずるさがない。」

それは「障害者」だから、なのでしょうか?

私は、障害者の全てを「善人」とは思っていません。健常者の全てが「善人」でないように。

ですから「障害者」=「善人」という思想は非常に危険だと思うのです。

もし「障害者」=「善人」ならば、「障害者」を嫌うことは、してはいけないことのように感じませんか。

これは、「障害があるから嫌う」とは、まったく意味が違います。

「障害者」だって、性格は様々です。

気が強い人、気が弱い人、陽気な人、無鉄砲な人・・・・・いろいろいます。

人間ですから、話をし、関係を深めていく中で、気が合わないと思うことや嫌いだなと思うこともあるでしょう。

それが「当り前」ではないでしょうか。

でも、それを・・・・・。

その「当り前」を出来ない時、「その人と親しくなりたい、対等に付き合っていきたい」そう思えるでしょうか?

私は、自分なら難しいと思います。

親しく付き合っている友人の中には「いいところ・悪いところ」両方あります。

「悪いところ」が見えたときは、嫌だなと思うこともあるし、そう思う自分を悪いとは思いません。

最終的には、その人に嫌だな、と思う時の自分の気持ちも全部含めて、その人と対等に付き合っていこうとする自分がいるからです。

「障害者」=「善人」

そういう思想を、私はその言葉から感じました。

私の勘違いなのかもしれません。

ただ、学校教育等で行われている授業の中でも、そういった傾向があるように感じてしまうのです。

「障害は個性である」

昨今、そういった言われ方もあるようです。

ですがその前に、「障害者自身の個性」を殺さない認識こそが大切なように思えます。

障害の有無にかかわらず、人として、どう付き合っていくか。

これが一番必要なのでは・・・と思ったりしました。

この文章で「障害があるから嫌い」と「あの人(障害を持った人)とは気が合わないので嫌い」との違い、伝わっているでしょうか。