濁りある大人の私 2002-05-24 - へびあし。


_ 濁りある大人の私 2002-05-24

こんな歌詞が、ラジオで流れてきた。

『澄んだ水が濁るように大人になる』

書いた方がどういった意図で書かれたかは分からないけれど、大人になることがよくないことのように歌われているように感じてしまった。

『澄んだ水』というのが、「純粋だ」ということだとしたら、大人になることは「純粋でなくなる」ということだろうか?

もし大人になることが『濁って』いく事だとして、果たしてそれは悪い事なのだろうか?

中学生の頃、賢くなりたくないと思っていた。

思惑を巡らし、気持ちを押さえつけ、自分を曲げたりしたくないと思っていた。

そんなことをして、それを「仕方がない」と自分に納得させたりしたくないと思っていた。

でも実際に社会に出て、一応「大人」と分類される歳になった今を考えてみてどうだろう?

ひとりで生きていけるのならば、自分のことだけを考えていればいい。

でもそうじゃないから、人に気を配る。

たまには、自分の意見も曲げたりもする。

でもそれは、中学生の頃の自分が思っていたような、苦痛が伴うだけのものではなかった。

何故なら、私は多くの人に助けてもらい、指導をしてもらい、毎日を過ごしている。

決して、私一人の力で毎日を生きているのではない。

しかしそれは「自分」という「個」を持たないことではない。

「個」しか知らなくて「個」であることに、あまり意味はないように思う。

あくまでも「個」とは「集団」の中にあって、成立する。

「集団」の中に身を置き、歳を重ねるにつれ、様々な「妥協」をし、たまには自分や他人を偽ることを覚えていく。

そのことを否定するとすれば、確かに大人になるのは「不純物」を身につけていくことなのかもしれない。

ある種の「ずる賢さ」を覚えていくことかもしれない。

しかしそれは、「集団」の中で生活する為に必要不可欠な「不純物」ではないだろうか?

「仕方ない」は、ただの「諦め」の言葉ではないと思っている。

「仕方ない」状況を受け止め、「仕方ない」事実に対して責任を負う決心もそこには含まれている。

もし今の自分を「濁っている」と言われたら、私はその言葉を誇らしく受け止めようと思う。

その「濁り」は私が今まで歩んだ中で、良くも悪くも「学んできたこと」そのものなのだ。

この「濁り」は時と共に熟成され、やがて「生きていく知恵」と姿を変えていくはずだ。

私が自分に誠実である限り。

私が自分以外の人に誠実である限り。