模索 2002-01-28 - へびあし。


_ 模索 2002-01-28

私の昨日の日記を読み、メモライズ仲間のぷよさんが『知らない世界に住む人との価値観の違い。』という文章を書いてくれた。

自分の書いたもの、特にこういった話題に、リアクションがあるのはとても嬉しい。

それで、それを受けて、私の思うことを書こうと思う。

今、健聴者である私の身近にろうあ者がいる。

私達は、時に友人であり、飲み仲間であり、先生と生徒であったりもする。

私達は「音」を共有出来ない。

でも、空間を、そこに起きる出来事を、共有することは出来る。

それで、十分じゃないかと思うのだ。

私達の世界はひとつだ。

健聴者同士の全てが、一緒に過ごした時間の全てにおいて、互いを十分に理解できているだろうか。

そんなことはありえない。

それと同じ事だ。

音声言語を主体とする健聴者と手話言語を主体とするろうあ者はコミュニケーションをとることが難しい。

だから、私は手話を学ぶ。

地面から雨が降ることがないように、ろうあ者が音声言語を取得し、使いこなすことは困難だ。

だから、私は手話を学ぶ。

例えば、

 外国人に英語で道を聞かれた。

 私は答える術を持たなかった。

 となりにいた友人が代わりに答えてくれた。

 骨折をした。

 荷物と松葉杖を持っては、階段を上がれなかった。

 通りかかった人が荷物を持ってくれた。

これらのことがどれだけの意味を持つだろう。

私がしようとしていることは、こういうことだ。

健聴者が手話を覚えることを、「歩み寄り」と言う人がいる。

「歩み寄り」などではない。

上下などない。格差などない。

あるのは、ただ世の中が健聴者を中心とした作りになっているということだけだ。

「たまたま」健聴者の数が多かったということだけだ。

それが、認識の誤りによって、上下や格差を錯覚させることがあるだけだ。

綺麗ごとで言っているのではない。

本当にそう思っている。

手話を学ぶということは、ろうの方々と話をする手段を身につけることであり、時と場合によっては、彼らの「声」を代弁することが出来るようになるということだ。

私にとってそれは、道を聞かれたときに代わりに答えることであり、階段で荷物を持つことでしかない。

奉仕ではない。

犠牲などはない。

ろうの方々の中に、自分達の世界に、文化に、誇りを持っている人は多くいる。

ただ、それが私達の関係を隔てるものではないと思っている。

知らないものは、知ればいい。

ただ、私が憂うのは「知る機会の少なさ」だ。

健聴者有利の生活環境で、ろうあ者がそのことを「思い知らされ」合わせる事を強要されているかのごとくの現状の中で、私達はなんと知る機会が少ないことだろう。

それは、ろうあ者だけでなく、高齢者や身体障害者とも置き換えがきく事実だ。

私自身、そのことで幾度となく、戸惑ってきた。

どのくらいやれば、全てを知ることが出来るかなど、わからない。計れない。

ただ、どんな関わり方であれ、私は一生涯学び、知ろうとする人間でありたい。

そして、可能な限り「知る機会」を増やす活動を支援し続けていくつもりだ。

解答など、ないのかもしれない。

終わりだって、ないのかもしれない。

でも、変わる事はある。

時間はきっと味方であると信じている。

等身大の私で、決して無理も、背伸びもせず、続けていこうと思う。

願わくば、この文章を読んだ方の気持ちの片隅にでも、何かが残りますよう。

出来れば、感じたことをカキコいただけると、幸いです。

ひと言でもいい。何かお願いします<(_ _)>