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明日、と言いながら
2009-08-19
明日から時間を作るのが難しいので、とりあえず記録しておきます。
どのくらいのものを大手術というのでしょうか。
時間の長いものでしょうか。手術場所が困難な場所の場合でしょうか。
生死の危険の大きいものでしょうか。
判断はつきませんが、今回の父の手術は、私たちの家族・親類の中では一番長く大変なものだったように思います。
オットも弟も当然,会社を休んだ手術日。
ありがたい事に話を聞いた母の兄弟たちが駆けつけてくれました。
母は五人兄弟なので、それだけでたいそうな人数となり、何だか心強くなったのを覚えています。同時に「大変な事になった」とまた思いました。
10時半近くになって、外科部長からの説明がありました。
本人の希望もあり、父を交えて、病室での説明になりました。
前日に実際に動いている父の心臓の映像を見ながら聞いた話は、どんなに危ないといわれても「今現在動いている心臓の映像」を見ながらだったので、逆に実感がわかなかったのだと後になって思いました。
説明用にホワイトボードに描かれた父の心臓の様子は、痛ましいものでした。
心臓から出ている三本の血管の一本は完全にストップしていました。100パーセント血が流れていないと言う事です。残りの二本のうち、一本のほとんどの詰まっており、もう一本の方の枝分かれしている先も全く血が通っておらず、何も機能していませんでした。
まさに「何もなく生きていることが不思議」でした。
手術は、バイパス手術と呼ばれるものだと言われました。
私は、てっきり詰まった血管の横に新しい血管をつなぐのかと思っていたのですが、何と詰まった血管は放置し、全く新しい血流を作るため、他のところから血管を持ってきてつなぐとの事。両腕から二本、左手から一本、右足から一本、そしてあと一本(どこだったのか忘れました。この血管は実際はつながれなかったので)計五本つなぎますと言われました。
つなぎますと言われても、糸をつなぐわけではない訳です。そう簡単にいくのか。危険はないのか。頭の中を色々な思いが駆け巡りました。
心臓は止められ、人工心肺になると言われます。心臓って止めても大丈夫な器官なんでしょうか。疑問は浮かぶけれど、どれ一つとして聞く事は出来ませんでした。先生は、穏やかで現実的で、思い浮かびそうな疑問には丁寧に説明してくれました。この人にすがる事しか出来ないのだと胸が締め付けられるようでした。
冗談でも嫌味でもなく、ただただ純粋に、「これにすがるしか他ない」という事態が自分に訪れていることに奇妙な違和感のような非現実感を感じました。
私はこんな時に「己の無力さ」を嘆いたりするほど、若くなくなったのだとも後になって思いました。出来る事を今、しなければいけない。その気持ちだけが私を動かしていました。
全く何の自覚症状もなかった父は、あまりの事態に驚き、気弱になり、なぜ生かされているのかという不思議と、生きていていいのかという罪悪感のようなものを強く感じているようでした。
母は、強く押したら倒れそうでした。支えを奪われた写真立てのようになっていました。
子ども達だけが、人の多さに興奮し、大きな声を上げているので、余計に奇妙で、こっけいな邦画を見せられているような気持ちを際立たせました。
「宜しくお願い致します」そう、頭を下げることが私に出来る唯一の事でした。
12時には、父は麻酔の為、手術室に連れて行かれました。
長い長い一日の始まりでした。
ICUの待合室で、ただただ時計を見る一日の始まりでもありました。
手術前には、医事課の方から費用についての説明もありました。
そこで、父が障害者3級の手帳をもらう事になる事も説明されました。
母に抱えきれないほどの問題が降りかかっているように見えました。
もう、何を言っても聞こえていないような気もしました。
それでも子どもたちのお陰で、随分と元気付けられ、気が紛れました。
鉛のような簡単なお昼を食べて、ぼんやりと説明された様々な事を考える時間が出来てしまいました。よくない状況でした。考えても仕方のない事で、今まで助けてもらった幸運と病院の関連する全ての方々に任せるほかないのです。
途中から、ぼんやりと鶴を折ることを提案しました。深い意味はなく、ただ、気が紛れればよかったのです。それしか私たちに出来る事はないと、出来る事をこなすことをしたかったのです。
長い長い時間でした。
13時半に開始で8時間の手術でした。交代でICU待合に来てくれる親戚と成り行きを話しては、励ましあい、鶴を折りました。誰とも話さない時は、黙々と鶴を折りました。
19時あたりから、頻繁に時計をみました。あと何時間、あと少し。
予定時刻の21時半を過ぎても終わりませんでした。幸い、手術は長引くでしょう、長引いても誰も声をかけてこなければ無事に進んでいるものだと思っていてくださいと聞かされていたので、不安は大きくはなりませんでした。不安のキャパを越えていたのかも知れません。
結局、ぐずる子どもたちをあの手この手でかわしながら、手術が無事に終わったと聞かされたのは、24時になってからでした。しかも、父の顔を見れるのは、更に一時間後、ICUに移ってからになるとの事でした。
「わー」っと飛び上がって喜ぶような気持ちはどこにもありませんでした。ただ深呼吸した時に入り込んだ空気のような安堵感が生まれてはそっと消えたような感じでした。時間と心労で、私たちは疲弊していました。しかし、その時はまだ、私たちは行われた事の大きさが現実的にはわかってはいませんでした。ただ時間がかかった事しかわかっていませんでした。
ICUに移されたまだ麻酔の切れない父の顔は、この三日間で一番恐ろしい顔でした。
険しいという意味ではなく、ここが病院でなく、自宅であったなら、絶対に見たくない顔でした。生よりもぐっと死を意識させる顔でした。体中に傷があり、血が見えた事ももちろんですが、血の気のないその顔は、私が見ることが出来なかった亡き祖父の顔のようでした。この事が起こってから、家族ではずっと言われていたことだけれど、様々な偶然で生かされ、最愛の亡き祖父母が世話になったこの病院に運ばれた事が、そして今目の前にあるこの父の顔が「やはり助けられたのだ」と私に強く感じさせました。父をこのまま、チキンとしっかりと回復させ、心も体も生き返らせねばならないと強く思いました。それが、私の出来る事だと思いました。
私と娘の誕生の日に、覚書として。
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突然に
2009-08-19
人生って変わるものだなぁと思います。
恋愛や結婚も、妊娠、出産もそうだけど、病気ってのも絶対人生を変えてしまうと思う。
父が今月初めに緊急入院し、緊急手術となったから、余計にそう思うのですが。
以下、覚書のような長い文章ですので、長文が苦手な方は飛ばしてください。
父はその緊急入院になる日まで、まったくいつも通りでした。
庭の手入れを暑い中、しっかりやり、たくさん食べ、更にオットと焼酎を飲みました。
それまでは、全くいつもの土曜日。
食後、しばらくはゆっくりし、子どもたちとひとふざけして、横になっていました。
「おや?」と思ったのは、私たちが家に帰る頃。
息苦しそうに咳をして、喉を押さえ、見送りには出て来ませんでした。
それまで、そういう事は一度もなかったような気がしました。
甥っ子のことか何かで手をとられているとか、何らかの作業をしているとかでなければ、大体は見送りに玄関までは出て来ていたのです。
でも、その時は私も「飲みすぎたのかな」と思っていただけでした。
帰って(実家は徒歩十分圏内!)オットが娘とお風呂に入ってしばらくしてからでした。
母からの電話。
父が具合が悪いので、急患センターに連れて行きたいが、父が起き上げれないので、オットの手を貸して欲しいとの事。
本当に、珍しい事でした。母はオットをかわいがっていてはくれたものの、やはり他人ではありますから、そうそう何かを手伝って欲しいとは言わないのです。その母が電話してきた事で事の重大さがわかりました。しかも、そう言いながら「あぁ、でも救急車とか呼ぼうかな、呼んでもいいのかな」と独り言のように言い出す始末。
救急車!
とにかく、オットをお風呂から出し、弟と一緒に父の付き添いで急患センターに行ってもらいました。
同行したオットによると、父は車中で一度嘔吐し、その後、びっくりするほど回復したように見えるとのメール。
ただの飲みすぎだったのだろうか、と思いつつ「よく診てもらってくれ」と返信。
長い夜でした。
心電図の後、精密検査の必要ありとの事、とメールしてきた頃には23時を回ろうとしていました。
約一時間近くかけて、大きな病院へ弟の車で再度運び込み、CT検査の後、「心筋梗塞の発作が二三日前におきており、安静が必要。緊急入院」と診断。
そのまま、病院に入ることになってしまいました。
家族の誰も考えていない事態になりました。
それでも、家族の誰もが造影検査で、そのまま簡単なバルーン処置(詰まっている血管を見つけ、そこを膨らませて、血流をよくする)で終わるだろう。最悪、一週間程度の入院で済むだろうと疑ってはいませんでした。多分、病院の先生方でさえ、そう思われていたのではないでしょうか。なぜなら、父はその時はまだ一般病棟への入院だったからです。
しかし、のん気な緊急入院後の日曜日の一日の後、事態は一変しました。
月曜日、急患のせいで、父の午前中開始の検査は午後になり、やきもきしてやっと迎えた検査開始。開始後、30分ほどでなぜか看護士さんに呼ばれ、検査されている父が見える部屋へ連れて行かれました。
検査をしている最中での医師からの説明でした。
その時でさえ、私はバルーン処置の為の説明だろうと微塵も疑ってはいませんでした。
医師の第一声は、二週間以上たった今でもはっきりと覚えています。
「はっきり言って、最悪の状態です。何で生きているのかわからないぐらい詰まっています」
父の血管は、びっくりするぐらい詰まっていました。
やっと、微量の血液が流れている状態で、危険な状態だったのです。
でも、そう聞いてさえ、でも今生きてるんだし、今入院してるんだから大丈夫、不思議と私はそう思っていました。もちろん、そう思うこと事態は間違ってはいなかったのでしょうが、あまりの事に理解がついていかなかったのも事実で、とにかく「大変な事になってしまったようだ」とだけ、考えていました。
検査医は、外科と相談し、どう処置するか考えたいとその日は病院を後にしました。
父にも同じ説明がされ、父はHCU(ICUと一般病棟の中間)へ移されました。
フラフラと家に帰り、日常に戻ろうと家事をこなしていると帰宅して一時間もたったぐらいに母から電話が。なんと、状態がよくないと病院から連絡があり、明日手術するとの事。
どう手術されるのか、何の説明もなされず、全ての話は手術当日の朝にという事になりました。
以下、また明日にでも。(・・・続く??)
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父、退院す。
2009-08-26
月曜日に、無事に退院しました。
しかし、早いなぁ。
もちろん、家族には長い三週間だった訳ですが。
主治医に、「運転はしばらく駄目。荷物も10キロ以上は駄目」と言われ、何だか思いっきり<病人>って感じの父を見て「もう、手術としては成功で退院はしていいわけだから、いい加減にしろ!」と怒鳴りたくなった薄情な娘です。
ICUにいた顔を忘れた訳ではないのですが、退院した以上、「病は気から」な訳で。
治ろうとしない以上は治らない訳で。
しかも、動脈硬化という状態から完治したわけではないので、頑張らんとあかんやろ?と思うのですが、何と言うか、、、、、情けないです。
男ってねぇ、へぼいわよねぇ、なんて母と言い合う日々です。
いや、ホント、きつい事言ってでも、気持ちを治していけるよう、また新たな戦いの幕開けだなぁと思っています。
そんなバタバタした日々の中、娘はどんどんとひらがなを身に付けていってます。
教える暇なんてないのですが、ひとえに甥っ子のおかげです。
文字と一致しているのはまだ半分ぐらいですが、少しずつ、文字というものそのものをどういったものか理解していっているようです。
でもねぇ、不思議な事に教えたら、全然駄目。覚えない。
勝手に覚える方が身につくみたい?それとも教え方に問題が?
看板や旗なんかに知ってる文字を見つけると「<あ>があるよ」とか「<ママ>の<ま>だね」とか言う様になりました。成長ですねぇ。
そして、歌がものすごく下手な事がどうやらはっきり分かってきました。
オンチ。
ただ本人は歌が好きなのか、自分で適当に歌詞を作り、作曲し、聞いたこともない変な歌をうたいます。変なやつ。
今は「手のひらを太陽に」と「おばけなんてないさ」が大好きで、「手のひらを太陽に」はアンパンマンの映画を繰り返し、繰り返し観ています。
でも、歌詞を覚えることはいい事だと思うので、好きなようにさせてます。
こっちもその方が好きなことが出来るし←ダメ親。
身長はどうやら、また伸びたらしく100cmのTシャツがちょっと短くなってきました。
困った。。。
この夏までは、100で過ごさせますが、来年は絶対無理。
あー、本当に子どもの成長って早いっ!