そらまめ会 2005-03-13 - へびあし。


_ そらまめ会 2005-03-13

学生時代にずっと、子どもたちと関わるボランティアをやっていた。

県やら市やらから、お金を巻き上げて運営費を得て行っているものに参加していた。

三年ほど。

楽しかったし、これがなかったら、私の学生時代はもっと味気ないものになっていたかもしれないと思う。

色々な経験を積んだ。良い意味にも悪い意味にも。

ずっと日常生活のようにして、毎日三年間関わってきたので、抜ける時はとても辛かった。

ただ、もう私はここでやれる事は十分にやったと感じていたし、これ以上いても、それはただの馴れ合いにしかならないのではないかと思っていたのだ。

その判断が間違っていなかった事を今、確信している。

なぜならば、三年もやってきて、今でも付き合いのある人なんて、ほんの一握りなのだ。

つまりそれ以外の人とは、馴れ合いで付き合った三年だったと言える。残念だが、卒業できない人と付き合えない事も事実だったので、仕方ないと思う。

それでも、これらの経験は私に色々な刺激を与えてくれた。

そして、これをやめようと決心した時、私は「新しいものを自分で作りたい」と思っていた。

規模なんて小さなものでいい。

企画をしたり、会議をしたりといった経験のない大学生たちに参加してもらい、「企画して作る楽しみ」を味わってもらい、子どもたちには今はなくなってしまった「子ども会」を体験してもらうような事が出来ないか、と思うようになっていた。

やる以上は、全ての責任は私に掛かってくる。

それでもやれるだろうか、と何度も思った。最悪の事態もシュミレーションした。

それでもやりたいと思った。出来るというのはおこがましかった。

一番に考えたのは、一緒に責任を負ってくれる代表者が欲しい、という事だった。

心細かったのではなく、私が主催になったからといって私の意見が全て通ってしまうという事態を避けたかった。

誰の意見も平等に取り入れ、皆で検討するために、私を止めてくれる人が必要だった。

そう思った瞬間、一人の人が思い浮かんだ。この人しかいないと思った。

その人は説得に説得をして、参加してくれる事になった。

その時に彼が、事故の事を一番に考えてくれているのがわかって、この人がいいと思ったのは間違いではなかったと思っていた。

その後、少しずつ、少しずつ、メンバーを集めていった。

大した数ではなかったけれど、それが大事な事だと思った。何かがあった時に自分が統率出来る人数である事も重要な要素だったのだ。

集まっていく中で、まず最初に決めたのは、会の名前だった。

親しみやすく、忘れにくく、私たちの趣旨が伝わるものは何だろう。

「そらまめ」というのが会の名前になったのは、何回目の会合だったろうか。

空豆とも表記するという事(豆果が空に向かってつくという事から)を知り、音もかわいいし、何より「空に向かっている」というのは、私たちにとって意味があるように思ったからだ。

ユニークでかわいい名前になったと思う。

私の意図としては、この名前会議の中でスタッフの性格を見て、今後の方針を立てるという狙いと会に対する愛着や自分たちで一から作っていくという実感を持ってもらうという意図があった。

そういうものを経て、会は無事にサマーキャンプを無事故で終了した。

クールな顔をしてやってきた「イマドキ」の大学生だった子達が、感動で泣いているのは「シメシメ」という気分だった。

その後も簡単なイベントを一度行った。

いつも本当に楽しかった。

この度、福岡に帰ってきたという事もあって、久しぶりにそのメンバーと顔を合わせた。

全員ではなかったけれど、みんな相変わらずで、とても懐かしかった。

成長を見たな、と思ったのは、

「当時はただ付いて行けばよかったけど、今、色々な事が分かるようになったら、自分が先頭にたってイベントをするなんてことは考えられない」という声が上がったことだ。

怖さ、というものは、その時々で感じ方が違う。

当時もその大変さや怖さは分かってはいたと思うが、今のこの瞬間とは大きく異なるものだろう。

それが分かるから、思い出を大事にしてくれてると思うので、とても嬉しかった。

今、私はジッと冬眠している。

それ自体は決して悪いことではないけれど、いつかは冬が明ける。

その時に、私は胸を張って、どこかへ出て行けるだろうか。

ふと、そう不安になることがある。

きっとそんな時は、この時の思い出が私を支えてくれるだろう。

今はそう信じている。