_ 写真のこと 2005-03-28
写真を撮るのが好きだ。
写真を撮るのが好きなのだな、と気付いてからそう時間は経っていないのだけれど。
写真を撮るのが好きだと思うまでは、写真を撮るのが嫌いだった。
人物を撮るのは、分からないでもない。
でも誰も写っていないものを撮って、一体何が楽しいのだろう、といつも疑問だったのだ。
つまりは、何も見えていなかったという事。
大学生まで、ずっと追われるように生きた。
高校までの年月は一日一日はのんびりとしたものだったが、それでも「何か」に追われているように感じていた。
そして、大学の四年間は本当に追われるように生きた。
毎日分刻みで予定を組み、多くの人に会い、多くの事を語り、多くの事を学んだ。
いつ季節が変わったかなんてわからなかった。そのぐらい忙しかった。
四年しかない、と思っていたからだろう。これを過ぎれば、自由に生きる事が出来ないと思っていた。
そんな怒涛のような四年間の後に、考えていたよりも自由な社会人になった。
仕事はとても忙しく、いつ寝ていつ起きているのかと思うような日々だったけれど、考えていたよりもずっと自由だった。
営業だったからかも知れない(思えば、あの営業生活があるからまともな会社員になれないのかもしれない)。
そして、ハタと気付く。こんなに駆け足でいいのだろうか、と。
そんな時に親しくなった人から、俳句を教わるようになった。
教わったのは、ほんの僅かな時間ではあったけれど、夢中になった。
俳句といえば、難しく考える人も多かろう。私もその一人であったし、本当は難しいものかもしれない。
でも私がその僅かな時間に教わった事は、一つの「言葉遊び」であった。
日常の変化に気付き、それを表現する。ただし、直接的に表現するのではなく、わざと比喩を用いたりする。
同じ感性でしか感じられない表現にする。
それが私の教わった俳句だった。
本当に奥の深いものだから、私の理解なんて大したものではないのだけれど、それでもとても新鮮だった事は間違いない。
文学部出身である私にとって、表現とは「同意を得るもの」だったから。
多くの人に共感を得られるように表現するというのが、常に論文等でも求められ、ある意味「説得の文章」であり「説得の表現」が主流だと思っていた。
それとは異なっていた事が新鮮だったのだ。
そして、いざ作ろうとする時に必要としたのは、「気付き」なのだ。
変化に敏感な心、感性、そして、その表現力が求められた。
そういう目で自分の身の回りを見ると、多くのものが色鮮やかに見えた。
新しく芽吹く命、去っていく季節、走っている車の音、人の声という音。
それらが全てくっきりとした輪郭を持って、私の前に現れたような気がした。
それを謳う。
それでも追いつかなくなった時、私が表現の媒体として選んだもの。
それが写真を撮る事だった。
今はデジカメを使うことがほとんどだけれど、アナログの方が好きだ。
どんな風に撮れているだろうというワクワク感は何ものにも変えがたい。
思っていたものが表現されている事なんて、ほとんどない。所詮は素人だ。
それでも光の加減で紙焼きならではの、面白いものが切り取れていた時は思わずガッツポーズをしたくなるほど。
そういうわけでやっと撮り溜めた「私以外の人にはどうでもいい」写真をUP致しました。
お暇な方は見てやってくださいまし。
私のかわいい相棒達。どちらも30年もの。
フラッシュはないし、近くは撮れないしで、もうとてもかわいい(今の使い捨てカメラの方が高性能)。
でも、一眼レフの方のきりりとした写真は美しい。もちろん、デジカメもかわいいけど。
by ミズキ