_ 足元がすくわれたりする認識 2002-01-27
実はずっと、「障害者」(その言い方の賛否も棚上げする・・・って、一々断り始めるとキリがない。今回は本題以外は目をつぶって頂きたい)と呼ばれる人々は、ある意味ひとくくりだと、漠然と思っていた。
もちろん、障害に違いはあるし、だから障害者は必ず助け合うものだと思っていたというわけではない。
だた、「障害者」の中では、彼らは平等であるかもしれないと思っていた。
自覚して、愕然としたりもするが。
本日、福岡市聴力障害者福祉協会が主催の「新春のつどい2002」に参加してきた。
参加といっても、報告会という感じだったので、聞く(いや、見るか)のが主だったのだけれど。
そこで、「第19回デフリンピック(世界ろう者競技大会)」の報告があった。
障害者の競技大会といえば、(最近は知名度も上がっているので)思い浮かべていただける大会名があると思う。
そう「パラリンピック」である。
報告では、「パラリンピック」の名を上げ「デフリンピック」の知名度の低さを嘆いておられた。
いや、待て、である。
私の記憶に間違いがなければ「パラリンピック」は「障害者競技大会」なのではなかったか。
調べたら、「日本ろう者スポーツ協会」の名が、日本パラリンピック委員会加盟競技団体名簿の中にちゃんとあった。
よくわからない。
よく分からないのは、その場で解決したい性質である。
いつも手話を教わっているYさんに聞いてみた。
「なぜ、『デフリンピック』なるものをやるの?
パラリンピックと同じじゃいけないの?」
「障害が違うんだよ」
(言葉は違うかもしれない。言葉のニュアンスで受け止めないで欲しい。
Yさんはろうあ者だ。あくまでも私がそう訳したということ。)
しかし、彼の返答としては、そういうことだ。
考えもしないことだった。
その時に初めて、「障害者は障害者の中で平等だ」と勝手に思い込んでいた自分に思い当たった。
そこに存在しているのは、重・軽の違いではないと思う。
障害の種類が違う。
そのことが、大きな意味を持っていた。
世間一般的に『ボランティア』に分類されることに関わり始めて、6年以上が経つ。
今改めて、思う。
『ボランティア』ってなんなんだろう。
『バリアフリー』ってなんなんだろう。
by ミズキ