_ 今日という日 2002-01-23
むかし、むかしのこと。
ある朝、少女は目が覚めて、戸惑いを覚えた。
何かを夢の中に置き忘れたような、そんな喪失感。
はじめは、それだけだった。
でも、時を重ねるにつれ、彼女は多くのことに不安を感じるようになった。
私は、靴下をどちらから履いていたんだっけ?
ドアは右手で開けていたか、左手で開けていたか。
眠る時に口はどうしていただろう。
そんな、些細なことだ。
でも、彼女は確かに自分の中にあった「何か」を失っていた。
少しずつ、少しずつ、彼女は日常から遠ざかっていった。
「毎日」が、彼女を怯えさせた。
「昨日」が、彼女を戸惑わせた。
「明日」が、彼女を不安にした。
多くの雑音が、彼女の耳に入ってもおかしくはなかった。
だが、彼女がそれを聞くことはなかった。
庇われていたのだと、彼女が気付くのはもっと時間が経ってから。
彼女の母は、何も言わなかった。
いつものように、「日常」を編み続けた。
彼女の母がしたことは、彼女に本を、その世界を与えたことだけだった。
スポンジが水を吸うように、彼女はその世界を吸い上げた。
その世界で、彼女は言葉を覚え、感情を波立たせた。
そして、ある朝少女は自分に呟いた。
「今から、また始めよう」
失ったものは戻らなかったけれど、彼女は新しいものを手に入れていた。
それから、十年以上の月日が経った。
今になって、彼女は思う。
あの時に、彼女の母が喪失した世界へ彼女を引き戻していたら、どんな「今」だっただろうか、と。
私は「ここ」にたどり着くことが出来ただろうか、と。
時折、その深さに飲み込まれそうになるけれど、その愛情に感謝する。
今後、何がしかの訣別が私達を別つ時がきたとしても、私はこのときの感謝を忘れない。
深い感謝と尊敬を込めて。
お誕生日、おめでとう。
by ミズキ