今だから言えること 2001-12-29 - へびあし。


_ 今だから言えること 2001-12-29

今、所有している携帯で、かれこれ8台目である。

最近でこそ、携帯電話は誰でも持っているが、私がはじめて持った当時は、かなりの贅沢品であった。

通話料金なんて、目ン玉が飛び出るような金額だった。

当時、学生でありながら、私がそんな贅沢品を所有していたのは、単に私が「全然つかまらない人」であったからである。

片道2時間半の通学に、アルバイトを3つ、ボランティア活動をこなしていた私は、寝る時以外に家にいたことは、皆無と言っていい。

故に、常に友人達に「捜索願い」を出されてしまう有様で、かなりのブーイングだったのだ。

「いや~ん、これじゃ、友達をなくしちゃう~」

って事で、急遽対策を練ることとなった。

そこで、ポケットベルを持った。

これは、かなり不便。

先方の「用事があるのよ」という意思は伝わるのだけれど、私の状況は伝えられない。

「あとで、連絡するから」のひと言を伝えられない。

ストレスになった。

そして、携帯電話になった。

一台目だけ、PHSだったけど、それも電波状況が良くない(当時)とかで、すぐに携帯にとって変わった。

今は、病人を抱えているので、携帯電話は手放せない。

自分がすぐにつかまってしまうことに、私は何の抵抗も覚えない。

(たまに、束縛されて嫌だ、と言う方がいらっしゃるが、そういう方は糸電話でも所有されると良かろう、といつも思う。)

ただ、携帯電話を持つようになって、いろんな人との距離を感じるようになった。

すぐに、話したい人と話せることはとてもありがたい。

でも、会える距離との人とまで「会った」気になって「話した」事になってしまう。

また、同時に「この人とは、電話を使ってしか話すことが出来ない」という事も感じるようになった。

手紙は、未来へ向けて送る。

手紙を書いている時間を共有することは出来ない。

相手の手元に届き、封を開け、読み始めた瞬間へと綴るものだ。

メールにも同じ事がいえると思う。

届く時間は早くなっても、書いている時間の共有にはならない。

電話は違う。

特に、携帯電話は違う。

自宅の電話なら、その人が「家」という空間の中に所属していることを知ることが出来る。

その人の家の中を知っていれば、どんな状況で話しているかを想像することも出来る。

(変な意味じゃなくてね)

それが、携帯電話となると、どこにいたって話す事が出来る。

それはつまり、どこにいるかわからない、ということであり、どこにいるか分からないので、この電話を切れば、その人とのつながりがなくなってしまうように感じたり、「それしか、連絡しようがない」事実に愕然としたり、距離を感じたりする。

普段は、携帯電話と仲良く付き合っている。

でも、突然に、その存在が恨めしくなることもある。

今だから言ってしまうが、今のように手放せない状況でなかった頃、少なくとも3台は自分で使えなくした。

ちなみに方法はいろいろあるが、実は投げつけたぐらいでは壊れない(ただし、コンクリなどに対してなら分からない)。

空いていた水槽に、水を張り、泳がせたこともある。

それでも、携帯電話とは仲良しだった。

ちなみに当時支払った最高金額N社へ¥56.487です。

本当に、今だから言える話なんですけどね(爆)