残された者 2001-12-16 - へびあし。


_ 残された者 2001-12-16

今日までだった「ビュフェ追悼展」へ行ってきました。

ベルナール・ビュフェ。

「父と息子」という作品が確か、美術の教科書に載っていたような気がします。

もっとも私、ビッフェの作品が好きなのか、と聞かれれば、疑問です。

昨日、たまたま買い物をしている時に案内のポスターを見て、何となく見に行ったという感じです。

好んで使われる、暗い色調は、殺伐として、陰鬱な印象を与えるし。

でも、だからこそ、実物を見たいと思わせるものもあったりするんだけど。

感想は、行ってみてよかったなぁ、と。

舞台に行っても思うけど、やはり「本物をじかに」この迫力に勝るものなし、ですね。

私は、絵をみる時って、頭を空っぽにしています(元からそうだろう?と言わないよう!)。

たまに解説をしながら歩いて見ていらっしゃる方をお見かけしますけど、私はそれをあまり好みません。

元々美術館・博物館には、ひとりで行くことが多いけど(誰も付き合おうという人がいないのだ)誰かと行っても、ひとりで回ります。

(後で感想を身勝手に言い合うのは、好きなんですが。)

とにかく、何も考えずに見て回ります。

惹き付けられるものがあれば、そこで立ち止まり、満足いくまで見ます。

言葉に出来ないことが多いので、何も考えません。

感動して、もしくは妙に惹きつけられて、その事をその場ですぐに言葉で置き換えようなんて、もったいなく、かつどこか軽率な気がするのです。

言葉にしようと、「今」を拾おうと躍起になると、「これから」の楽しみを奪ってしまうこともあると思います。

それは、ワインを熟成させることと似ているかもしれません。

ですから、美術館を出てすぐに感想は出てきません。

十分に時間が経ち、キーボードに向かいながら思い返してみて、行ってよかったなぁ、と感じています。

ただ、今日はいつもと少しだけ違っていました。

私は見て回りながら、頭の片隅にある人物のことを考えていました。

ベルナール・ビュフェの妻である女性のことを。

ベルナール・ビュフェについて、私はほとんど何も知りません。

持ち合わせているのは、記憶の片隅にあった作品への印象と今日の案内用のチラシで手に入れた知識だけです。

パーキンソン病に発病。自殺した画家。

「自分には絵を描くことしか出来ない」

そう思っていた彼にとって、描けなくなることは絶えられないことであった、ということなのでしょう。

私が、彼の作品を見ながら頭の片隅にあったのは、彼の妻はどんな想いで彼の死を受け止めたのであろう、ということでした。

「死」が迫り来ることを次々と具現化していく夫。

描き貯められていく「死」。

どのぐらい描けば、「死」から解放されるのか。

描けば描くほど「死」は彼によりそっていくようではなかったか。

そして、最後には彼が「死」を抱き寄せてしまう。

「残された者」は、どうしたらいいのでしょう。

どう受け止めればいいのでしょう。

『死んだら人の心の中に行く』

好きな本のセリフにこんなひと言があります。

彼女の心の中に、彼は帰ってきたんだろうか。

そんなことを考えていました。

もっとも、彼の死を受け止めているから行われた追悼展だったのでしょうけど。