先日から、右足が痛い。
時々、ほんっとうに時々しか痛まないので、憂鬱。
「病気の宝庫だねぇ」なんてしみじみ言われてしまって、ちょっとシュンとする。
もちろん、心配して言ってるって分かるけど。
よく考えれば、二月は原因不明の咳で悩まされ(どんな検査をしても原因らしきものは見つからず)、その後は歯が歩く振動で痛んで苦しみ(これも時間が経てば勝手に治った)、顎関節症だし、目も悪いし(先日ついにコンタクトを流して失った)、皮膚炎を患っているし、偏頭痛持ちだし、口も悪いし。
いいところがない。
でも、会社に行って迷惑かけたりはしてないと思うのね。
突然倒れたりは絶対しないし、前日に朝まで飲んでも出勤するし、遅刻もしないし。
だから、私としては「いいんじゃない?」って思って生きてるんだけど、本当に健康な人から見ると、ひどく不自由にみえるらしい。
当然といえば当然か。
「我慢とかしなくていいからね」なんて言われてしまい、なんだか突然に昔の事を思い出した。
小学校に入ったばかりのピアノの発表会でのこと。
私はそれまでに何度も発表会に出ていたし、発表曲も特に難しいことはなかった。
ただ、当たり前に緊張していて、そんな自分中にあったのは「絶対に間違ってはいけない」という束縛。
誰に言われたわけではなくて、何となく、でも「絶対」という強さでそう思っていた。
それって、当時の先生がとっても怖かったせいもあると思うけど。
それなのに。
私の前の子が、間違った。
私の中で「大ショック!」
「いいの?いいわけないよね?」幼な心で自問自答してみたり。
半泣きで戻ってくる彼女。
目の前で待ち構える先生(私のとって鬼婆のような先生だった。正直言って)
「絶対に怒られるだろう」そう思っていた。
でも、目の前に起こったのは、半泣きの彼女を優しく慰める先生の声。
「大丈夫だよ、間違ってもいいんだから」
今でもその声をはっきりと覚えている。
今でもその時のショックをはっきり覚えている。
そして、その後舞台に立った私。
暗譜していたものなんて、全部飛んでいた。
自分が何をしにここに立っているのかなんて事も忘れていた。
「間違っちゃいけない」は、私にとって束縛だったけど、同時に支えでもあったのだ。
今になってそう思う。
その後の事はよく覚えていない。
でも、とても怒られたのは覚えている。
とても怒られた。
いろんな人に。
以来、無意識のうちに自分を束縛して、その束縛を支えにして生きているように思う。
いつも苦しくて、苦しいのは当たり前だと思っていた。
「無理しなくていいよ」というのはとても甘く、魅惑的な言葉だ。
ただ、「無理」をしなくなった私がどっちに倒れるのか、という事を考えた時、私は私を手放す事が出来ない。
そうじゃない生き方もきっとあるし、そういう風にシフトしていかないと、私の糸はどっかで切れてしまいそうな気もする。
そうは思っている。
そんな自分だからこそ、鷺沢の件がショックだったのだと突然に分かった。