へびあし。

サイト名通り、「蛇足」な日々を書き綴ります。
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_ 足元を見よ! 2004-04-19

夜、スペシャルオリンピックの絡みで、お客様に会う。

外国の方。

もちろん、ちゃんと通訳付。

もちろん、仕事。

笑っちゃったのは、日本人の人がしゃべる英語は聞き取れないんだけど、外国の人がしゃべる英語は聞き取れちゃうって事。

聞き取れると理解できる、は別の次元の事だけれど。

英語の学習から離れて随分と時間が経つし、学生時代だって、出来るだけ英語に触れないようにして過ごしてきたんだけど(それなのに英語も中国語も単位落として再履修とかしちゃうあたりがまた駄目な感じで)それでも自分の中で何らかの形で残っていたりはするのね、とちょっとありがたく感じたりする。

今まで自分が経験してきたことは、自分自身の捉え方とその後の自分自身の人生によって左右されるのだな、と最近は感じることが多い。

実生活に何が直結する事だけでは、人生は豊かにはならないし、実生活に直結しないものばかりでは、生きていく事が困難になる。

私を最大限に活かせるのは、他でもない私自身なのだ。

他人のせいにしてはいけない。

今回の案件については、うちが先方にとって魅力的ではなかった様子。

・・・というか、どう聞いていても(話す人はたくさんいたので、始終黙っていたが)自分の会社について語れない人の多いこと!

私は以前の業務で面接していた立場上、端的に、かつ魅力的に自社について語らねばならず、随分と法螺吹き気分を味わったものだが、なるほど、そういう事をやってきていないとこういう風に話すのね、と驚いたりもした。

あ、毒吐き過ぎ、私。

ボランティアにどっぷり嵌っている風の通訳の方などは、まぁ、何となく目が覚めるような思いで見てしまったりした。

自分がやろうとしている事との差に驚かされた、といったところか。

今回の仕事での私のメリットは、あったような、なかったような。

こういう考え方があり、こういうものが受け入れられている世界があり、そこから見ると自国がどれだけ遅れているか、という事は分かったので、よしとしよう。

大きな規模で物事を考えるのは非常に大事なことだけれど、自分の力を過大評価しては足元をすくわれるし、机上の空論で終わってしまうことも多い。

私は私のやり方で、信じる道を行くしかないと思ったりした。

例え、どんなに微力でも。

_ 心の洗濯 2004-04-18

朝、早起きして、上野に絵を観に行く。

人の多いこと!

東京はどこに行っても人が多い。

これを観た。

思ったほどではなかったけれど、なんだかリフレッシュはする。

動物の理髪店の絵は面白かったし、理髪店の副業が外科だというのは、衝撃的だったりした。

その後は、ぶらぶらと秋葉原まで歩く。

アメ横は何度来ても、わけがわからん。

しかも、食事をしようという気にさせないオーラがガンガン出ている。

これだったら、マックがマシ、といつも思う。

それでいつも食事し損ねる。

どうも東京に来てから食事の楽しみが激減して、そのせいで生きるエネルギーも激減している気がする。

高くて、まずくて、接客が最悪。

これが東京での外食。

慣れなければといつも思うのだけれど、どうしても納得できない自分がいる。

それでも、好きな人達と一緒なら、食事はいつも楽しい。

それがせめてもの救い。

東京まで電車で移動し、駅そばでお寿司を食べる。

思ったよりもおいしい。

暑い中歩いたので、昼間からビールを飲む。

あー、駄目な感じ。

いい気分になって、中央線でビュンと帰る。

久しぶりにいい休日だった。

_ 落ちていく中で思い知らされること 2004-04-17

大揉めに、揉めて。

ルールを守らない人のお尻を拭ってあげるために、出勤する。

しかも、朝から発熱している。

私の体って、本当に正直。

それでも私は私の仕事を意地で守らねばならず、またこの仕事で知り合った大切な人達のことを思ったりしながら、悲鳴を上げている体を押さえつける。

この社内的な阿呆な揉め事に巻き込まれたお二人はとても大人で尊敬できる人達だったので、本当に申し訳ないと思うと同時に、こういう出会いをもたらしてくれる仕事でもあるのだ、と再認識する。

自分がやっていることを見失いそうになる時に、こうした事が起きる。

まだ、ここにいなさいと、誰かに言われているようだ。

すべてを受け入れる事は出来ない。

でも、それはすべてを否定するという事と同義語ではないのだ。

上を向きなさい、私。

_ 訃報 2004-04-15

作家・鷺沢萠が亡くなった。

出勤し、立ち上げたヤフーのニュースで知った。

思わず手が震えるほど、驚いた。

直接の知り合いでも何でもない。

私は彼女の一読者だけれど、ネット上で公開されている日記に垣間見る人柄がとても好感を持っていた。

昼のニュースでは、自殺となっていた。

とてもショック。

ショックを受けている自分自身にもショックです。

ご冥福をお祈りしております。

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今日、査定の話もあった。

勝手に過去の話まで持ち出され、頭にきた。

聞かせるのは今の上司の出した査定結果だけでいい。

査定基準も明確になっていない会社で、ほぼ個人の独断と言われても仕方のない査定を行っている会社なのに、何の権限があって貴方がオープンにするのか、私にはまったくわからない。

まして、最低限の当たり前の社会人としての決まり事すら守れていない人に査定される事の不愉快さ!

父は昔から、査定の時期になると憂鬱な顔をしていた。

時にはこどもの私たちのいる前でも「人が人を評価することは出来ない」と漏らしたりしていた。

父は「仕事が出来る・出来ない」という判断は、部下個人個人にしていたけれど、だからといって、それを会社という場所に評価として出すことに、点数化することに抵抗を持っていた。

必要があれば、父も部下にその評価を下した理由を説明する事は出来ただろう。

でもそれを個人の判断でしたりはしない人だと思っている。

そういうある種の「言い訳」をしない人だと思っている。

「評価」を「オープンにする」事で人を成長させることがマネージメントなのか、という事だ。

それでよくなるならば、中高生でみんな驚くほど成長しているだろう。

「評価」の段階で、指摘し、変化を促すのならば、誰でも出来る。

大切なのは、業務の途中に必要な注意を促せる気配りを持ち、時に気づきの機会を与え、時に褒め、時に叱る事だ。

理想論だけれど、私は一時期そうした上司に恵まれたので、とても幸せだったと思う。

だからこそ、仕事に創意工夫が出来た。

まだ若い上司にそういうものを求めるのも酷というものだろうと思いつつ、どうしても辛口の評価をしてしまう。

でも、それも上司の立場にあってこそで、常に部下に評価される存在なのだともっと自覚して欲しいものだ。

こんな事を本人に言ったら、今度は誰も話しかけられないような雰囲気で仕事をするのだろうという事も安易に予想がつくので、私以外の人の迷惑を考慮し、言ったりはしないけどね。