へびあし。

サイト名通り、「蛇足」な日々を書き綴ります。
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_ 恥ずかしい告白 2003-01-03

昨晩より自分の部屋に帰ってきています。

ラジオを聞いていて、無性に見たくなった映画がありました。

お、織田祐二主演の「TRY」。

ミーハーって言わないで。

昔から、好きなのです。

理由などなく、好きなのです。

遠くで動いたり、話したりしているのを見るのが好きなのです。

(近くにいたら、気を失うと思う←バカ。)

2月にスキーに誘われました。

「六代目春風亭柳橋」の「大山詣り」の導入を思い出しました。

(「雪山と言えば、最近はスキーなんてもがあって、そんなとこに行くのはやっぱり好きでないと行けないから「スキー」って言うんだとか・・・・うんねんかんぬん)

実は、死んでしまった曽祖父の言いつけで、「雪山に行くとよくない事が起るので、雪山には行かないように。子々孫々にそう伝えるように」というのがあって、行けないようになってるの、と言ったら怒られた。

けっ。

仕方ないので、実は、私は運動神経と言うものを、母のお腹の中に置き忘れておりまして、運動神経というものを身に付けておりません。

だから、せっかく誘ってもらったけどねぜ、楽しめないと思うのよねぇ・・・。

と言ってみる。

聞き入れてもらえなかったけど。

_ 思いと運命について考察する 2003-01-02

実家に帰って、久しぶりにテレビのある生活なんてものをした。

SMAPの出ている東京フレンドパークⅡを見た。

いや~、かっこいいですよね。

SMAPって。

改めて思ってしまいました。

「ここぞ」という時に木村拓也が頭の中で「ピンチの今」を「上手く」クリアして「成功している自分」をイメージしているのを妙に感じてしまった。

「俺は絶対に成功する」と彼自身が絶対的に疑っていない(もしくは疑わないように訓練している)というのは、人として強い人だと思いました。

彼は「顔がいい」とか「歌が上手い」とか「スポーツが出来る」という条件が揃っていて「アイドル」なのではなくて、「アイドル」である彼がいて、アイドルであるので必要な条件が彼にくっていていっているような感じがしました。

すごいなぁ。

人の思いの強さというのは、運命をも動かすと私は信じていたりします。

歌手として成功した人とかが「たまたま○○の目に止まって」とデビューのきっかけについて話しているのを聞くと、この人は思いの強い人だなぁと思います。

才能も必要だと思うのですが、自分の周りを見ていても「その辺のプロ」よりよっぽどすごい人がたくさんいます。

でも、プロではありません。

プロになりたいとも思っておらず、今やりたい事をやれていればいいと思っている方が多いです。

だから、彼らはプロにならないし、そのチャンスもやってこないのだと思ったりします。

基本的には、「プロ」の道だけが「成功」ではないので、それでも構わないのでしょう。

だからこそ、私は「思いの強さ」が望んでいる「運命」を引き寄せる力を信じてしまったりします。

それ以外の要素もあると思ってはいますけど、もちろん。

_ 一年の終わりに 2002-12-31

色々あった今年が終わる。

たくさんの毒を吐いたり、愚痴を言ったりしたけれど、結論は出ているのだ。

行動を起すまでの間をそうやって埋めているだけだと、自分では充分に分かっている。

だから、それはそれでいいと思う。

行き着く先は、決まっているのだ。

だから、「いい一年だった」と思う。

旅を終え、日常に帰る。

帰りながら、好きな場所に旅に行きたいと切望する。

一晩でいい、そこに行って、ぼんやりと夜が終わるのを見たいと思う。

今年一年、様々な方にお世話になりました。

また、来年も宜しくお願い致します。

_ 溺れている私 2002-12-30

国外二日目。

頭を、心を、少しクローズしてみようかとも思うけれど、あまりにいろいろなものに「感じ」過ぎて、感情のバランスさえ崩してしまいそうになる。

とにかく、少しセーブしないと、何も出来ないと思うけれど、全然無理。

本当の阿呆になったようだ。

今の自分がどんな状態か伝えるのは難しい。

出来る事ならば、ゆっくりとぼんやりとして、数時間を過ごしたい。

そうすれば、見失っている自分をひっ捕まえて、「今」をいかに過ごすのかもっと考えられるのに。

いきなり水中に顔を押し付けられたような息苦しさ。

もっと時間があれば、水の中にいるって分かって、安心して目を開けれるのに。

長い時間は無理だけれど、少しの時間なら、水中で過ごすことも出来るのに。

そう思っているうちに一日は終わる。

でも、ずっと思っていたことを言うことが出来た。

思い出というものと自分自身の位置関係というのは難しいけれど、捕まっては「今」を手放すのと同じ行為になるのだと思っている。

私は「今」に生きている。

良きにつけ悪しきにつけ。