へびあし。

サイト名通り、「蛇足」な日々を書き綴ります。
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_ リングピロー 2005-01-12

先日、全然違う用事で新宿のハンズに行って、すっごいかわいいくまのリングピローを見つけた。

挙式の打ち合わせで何度か「リングピローは作りますか?」と聞かれたのだけれど、Qちゃんが「作った後の実用性はあるの?なければ作る必要性はないのでは?」と言われて、納得していた。それ一回の為に作るのってよく分からなかったので。

でも、そのリングピローは、その後も十分に使える私達二人の好みにマッチするものだったので、急に欲しくなってしまった。

その場は、一旦考える事にしたけれど、やっぱり欲しいと思っている。

近いうちに吉祥寺のユザワヤで探してみるとQちゃんには言っておいた。

そんな朝、Qちゃんが「今日の予定は?」と聞いてきた。

「うーん、何しよう」

「ピローは?」

「え?」一瞬何の事かわからない私。

「ほら、熊の」

「あぁ、熊って言うから、木彫りのを想像しちゃったよ(写真参照)持ち込んだら怒られるかな?」

「誰も何も言えなかったり。テディベアです、と言い張る」と、妙に強気なQちゃん。本当に言いそうだよね、あーたは。

「でも、どこにリング置くの?」

「ここ?」

木彫りの熊

テディベアのリングピロー?

いえ、本当にこんなリングピローを使おうと思ったりしてません。

参列者の皆様、期待しないように。

今日の歩数。

13221歩。

1/12お弁当

<献立>

・薄味チキン

・えび甘辛煮

・コロッケ

・巻き卵

・ソーセージ

・豆腐の味噌汁

_ 新年会。 2005-01-09

関西人の家庭には必ず「たこ焼き器」があり、どこの家庭でもみんなプロ並みにたこ焼きが作れる、と信じていた。

そういうわけで、「新年会と称して集まり、たこ焼きを作ろう!」という事になった。

QちゃんとQちゃんの友達の「関西人度」を計ろうという試み。

ちなみに、材料を買いそろえている間に、二人とも「エセ関西人」である事が発覚し、早くも計画倒れの臭いがする。

でも絶対手を貸さないことにして、私とS嬢はメインメニューになるであろうサイドメニューの焼きそばをせっせと作る。

たこ焼きを作る予定だったが、どうせだったら(どうせって、どんなどうせ?)明石焼きがいいと言い出し、ネットで作り方を見つけてきて、怪しい手つきで作り始める。

数分後、黒っぽい、過去に丸かったと思われる物体が皿に盛られる。

知らなかったが、明石焼きとはこういうものだったのか?

いくらなんでも、これは違うと認識するのだが。

それでも食べられない事はなかったので、その怪しい物体を食べ、サイドメニューであるはずの焼きそばをおいしく食べる。

二度目は、軽く暖めたタコに、着ぐるみのように生地を着せてやりながら食べる「着ぐるみ式明石焼き」を食べる事になった。

一度目より色白なので、抵抗感激減。

まるで、成功したかのような盛り上がりをみせる。Qちゃんだけが。

「おおすっげー、明石焼きっぽい!」

「っぽい」って何だ?それを作っていたのではないのか?

いつか本当の明石焼きを食べようと思わせる、非常に有意義な集まりとなった。

Qちゃんの関西人ぶりもエセって分かった事だし。

ちなみに九州人の関西人認識。

1、誰でもたこ焼きが作れる。

2、一家に一台たこ焼き器がある。

3、ごはんのおかずはたこ焼きだ。以上。

今日の歩数。

9519歩。

ちなみに朝ごはんはおじや。

よだれちゃんと一緒に撮影。

朝ごはん

_ 可能と不可能の間で 2005-01-08

口にしてしまってから、その言葉の意味に気付く事がたまにある。

口にしてしまった後で「あぁ、その事について、私はそう思っていたのか」と気付く。

人に対して出してしまった言葉も取り返しはつかないが、それは自分に対しても同じ事だと知った。

認知してしまえば、事実は重く自分に圧し掛かる。

「知らなければよかった事」「気付かなければよかった事」そういうものが、日常にも溢れている。

自分では傷つかないつもりで、普段は押し殺して埋めてしまっている自分のうめき声を聴く。

部屋の片隅で泣いている幼い自分の声を聴く。

時間は取り戻せない。

もう、あの時に抱きしめて欲しかった人との距離は取り戻せない。

だから、傷つかないふりをするのではなく、自分で自分を抱え込むしかないのだ。

同じ事を自分が大切な誰かにしてしまわない為にもそうして乗り越えなければいけない事だってある。

そういうわけで、そこはかとなく、落ち込んでいる。

時間と仲良くするしかない。時が経つ事でうやむやにするのではなく、自己受容する。

そうしないと私は大切な一歩を間違えてしまうかもしれない。

今でよかったとそう思おう。気付いたのが、今でよかった。

大事な人がそばにいて、根気よく私の歩みを見守ってくれているのだから。

私は私の人生を歩きます。それしか、出来ない。

_ 一行目。 2005-01-07

いつも何気なく書いているような日記ではあるが、実は一行目に非常に気を配っている。

というのも、本の虫の私が書店で本を物色する時に基準とするのは、その一行目にきた文章出来だからだ。

「デパートの垂れ幕の上で踊るバザール、バーゲンという文字の前に、枕詞の《秋の》が付けられる頃、透き通った風が悪戯小僧のように街を駆け抜け、私達学生は長い休みと学園祭の間の落ち着かない授業を受ける」

これは大好きな作家、北村薫の「秋の花」の一行目。

これだけで、十分に秋の中にいる自分が想像できる気がする。自分が学生時代の学際直前の落ち着かないフワフワした気持ちをとても的確に、でも柔らかく書いているので、物語に入りやすいと感じるのかもしれない。

本は、大事な空想世界である。昔あったネバーエンディングストーリのバスチアンのように、私は本を読みながら物語の住人になるのが好きなので、すぐに物語に入れる書き出しを好むのだろう。

「くまにさそわれて散歩に出る。川原に行くのである。歩いて二十分ほどのところにある川原である」

これは、川上弘美の「神様」。うまい。

いきなり、突然にこの文章が来る。別に児童書でもないのだ、これは。

この一行で、「え、何なの?くまって?」とその先を読みたくなる。その世界に足を踏み入れたくなる。

そして、実際非常に面白いのだから、脱帽。この人の世界は、一見ファンタジーなのだが、キャラクターはいつもシビアだ。

このように、私にとって読み物は一行目で決まる。

だから自分の文章も、そこに気を配っている。もちろん、毎日そういうわけにもいかないのだけれど、週に一日ぐらいの割合で。

そうでなければ、私の日常なんぞ読んでいても面白くないのでは?と思ったりするからだ。

でも基本は自分のための記録なので、あまり読んでくれる人を意識して脚色するのはどうかとも思っているので、肩の力はぐっと抜いている。

たまにこの日の日記を読んで、こう思ったよ、とメールをもらえたりするのは、本当に嬉しい。

自分の日常で、直接接する事が出来ない人に何らかの影響を与えられたり、感想を持ってくれたりするのはすごい事だと思っている。

そんなのネットの世界を知るまでは、プロじゃないと、お金になるものを書かないと出来なかった事だと思う。

それが、こんなに簡単に手に入る。夢のような事だ、それは。

だから私は、今あなたがこの一行を読んでくれている事に本当に感謝をしている。

あなたが読んでくれている、という形で私を受容してくれている事が、今の私を支えている。

今日の歩数。

19478歩。