へびあし。

サイト名通り、「蛇足」な日々を書き綴ります。
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_ ご報告 2002-05-27

友人・武丸によると『吉田兼好が「迷う事はやらない方がいい」と言っていた』そうである。

よって、結局悩んだ挙句、六月の試験は諦めることにいたしました。

それよりも優先しなければいけない事があるにはあるので。

欲張らずとも、必要となれば、自然と受けれるような環境になるものです。

今はまだよい、と神が言っているのでしょう。

そういうことで、先人の教えに従って今回の受験を見送りました。

でも、受けること事体を諦めたわけではないので、十一月の試験までまたコツコツと頑張りたいと思います。

新たなる決心の月曜日。

_ 「地球に優しい生活」 2002-05-25

ここひと月くらい、「地球に優しい生活」を送っている。

この生活を世に広めるべく「地球に優しい生活推進委員会」を作ってしまおうかとすら思う。

でもそんなことすると、小泉内閣の存続を危機にさらしてしまうかもしれない。

「地球に優しい生活」。

それは「浪費」を省いた生活。

世の中の不況を更に推進してしまうような暮らしぶりだ。

・・・つまり、貧乏ってこと?などという突っ込みはしないでもらいたい。

あくまでも「地球に優しい生活」。

離れて暮らしているお父様、お母様、ご安心ください。

あなた様方の娘は、身も心も豊かすぎるぐらい、豊かに毎日を過ごしております。

せめて、この身ぐらいはやせ細ったっていいんじゃないかと思うんですが、何せやりくり上手なものですから(T^T)

_ 濁りある大人の私 2002-05-24

こんな歌詞が、ラジオで流れてきた。

『澄んだ水が濁るように大人になる』

書いた方がどういった意図で書かれたかは分からないけれど、大人になることがよくないことのように歌われているように感じてしまった。

『澄んだ水』というのが、「純粋だ」ということだとしたら、大人になることは「純粋でなくなる」ということだろうか?

もし大人になることが『濁って』いく事だとして、果たしてそれは悪い事なのだろうか?

中学生の頃、賢くなりたくないと思っていた。

思惑を巡らし、気持ちを押さえつけ、自分を曲げたりしたくないと思っていた。

そんなことをして、それを「仕方がない」と自分に納得させたりしたくないと思っていた。

でも実際に社会に出て、一応「大人」と分類される歳になった今を考えてみてどうだろう?

ひとりで生きていけるのならば、自分のことだけを考えていればいい。

でもそうじゃないから、人に気を配る。

たまには、自分の意見も曲げたりもする。

でもそれは、中学生の頃の自分が思っていたような、苦痛が伴うだけのものではなかった。

何故なら、私は多くの人に助けてもらい、指導をしてもらい、毎日を過ごしている。

決して、私一人の力で毎日を生きているのではない。

しかしそれは「自分」という「個」を持たないことではない。

「個」しか知らなくて「個」であることに、あまり意味はないように思う。

あくまでも「個」とは「集団」の中にあって、成立する。

「集団」の中に身を置き、歳を重ねるにつれ、様々な「妥協」をし、たまには自分や他人を偽ることを覚えていく。

そのことを否定するとすれば、確かに大人になるのは「不純物」を身につけていくことなのかもしれない。

ある種の「ずる賢さ」を覚えていくことかもしれない。

しかしそれは、「集団」の中で生活する為に必要不可欠な「不純物」ではないだろうか?

「仕方ない」は、ただの「諦め」の言葉ではないと思っている。

「仕方ない」状況を受け止め、「仕方ない」事実に対して責任を負う決心もそこには含まれている。

もし今の自分を「濁っている」と言われたら、私はその言葉を誇らしく受け止めようと思う。

その「濁り」は私が今まで歩んだ中で、良くも悪くも「学んできたこと」そのものなのだ。

この「濁り」は時と共に熟成され、やがて「生きていく知恵」と姿を変えていくはずだ。

私が自分に誠実である限り。

私が自分以外の人に誠実である限り。

_ 恋文 2002-05-23

今日は、語呂合わせで「恋文」の日だそうです。

「ラブレター」と聞いてもドキドキしますけど、「恋文」となるともっとドキドキします。

「恋文」という「音」の中に、日本語の美しさや秘めやかなものを感じてしまいます。

行間に相手への想いを詰めながら書き綴る、手紙にはメールとは違った力があるような気がします。

それは、決して「恋文」に限らず、全ての手紙に感じることです。

私は非常に怠け者な性質ですので、ついつい便利なメールに頼りがちです。

だからこそ、折に触れ、季節の便りだけは、疎遠になっている方には出させていただくようには心がけています。

そんな時には、その方を思い浮かべながら、便箋や封筒を選び、ペンを取ります。

その方との共通の話題や思い出に触れながら文章を書き、封をし、住所を書く時にはその方の住んでいる町に思いを馳せたりします。

そうやってしたためた手紙は、大きな意味での「恋文」と言えるかもしれません。

手紙は、時間を超えていきます。

常に未来へと送るものです。

書き手の「今」と受け取り手の「今」は違うからです。

リアルタイムで届くメールが普及した今だからこそ、それもまた、手紙の一つの魅力ではないでしょうか。

「恋文」を書いた経験って、皆さん一度はお持ちなのでしょうか?

また、受けとられた経験は?

今時の小中学生って、その辺はどうなんでしょうね。

そういうやり取りがなくなっていってたりしたら、ちょっと悲しい気がします。

そういう経験って、そのぐらいの世代にしか味わえないものだと思うので。

「恋文」ではないけれど、久しぶりに手紙でも書いてみようかな。