へびあし。

サイト名通り、「蛇足」な日々を書き綴ります。
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_ 春の便り 2002-04-02

久しぶりに、子どもから手紙が来た。

私の子どもではない。

もちろん。

私が地域ボランティア時代に担当していた子どもである。

最後の年の参加者だから、かれこれ四年前のことになる。

小学校五年生だった彼女は、もう中学二年生。

時間が経つのは、早いものだ。

手紙は、小分けされ、なんと合計13枚におよぶ大作であった。

己の中学時代を照らし合わせながら、読みすすめる。

私達の頃は「彼氏」など口にするのも、こっぱずかしいような風潮があった。

「元彼」などという単語はなかったように思う。

いや、あったかも知れないが、使用していたのはごく小数の人間であろう。

自分では、彼女とそう年齢が離れているつもりはないのだけれど、そう考えていくと13歳近く離れているのだなぁと思ってしまう。

「元彼がね・・・」なんて文章を見ると、カルチャーショックですらある。

ジェネレーションギャップってやつでしょうかねぇ・・・・。

それでも、彼氏に「バイバイ」って言われて嬉しかった、とかを見ると使う言葉が背伸びしているだけで、年相応の経験を重ねているのだな、と安心する。

「お話たくさんしたの。いいでしょ?」なんて書かれてしまうと、リアクションに困ってしまって、ちょっと悲しくなる。

彼女にとって、私はどんな立場にいるのやら。

しかし、私にとっては、かわいい妹分であることは間違いない事実である。

出来るだけ、変な背伸びをせずに、年相応に経験を思い出を、確実に重ねていってもらいたいものである。

参加者の女の子達には、いつも言ってきた言葉がある。

「めざせ!いい女!」

私の名前とこの文句の書かれたTシャツを着て帰ってきた子どもを見て、保護者の方が何を思われるかは、あまり考えないようにしている。

世の中には、しらなくていいこともある。

妹分たちよ、私にとってもこれは永遠のテーマだ。

「めざせ!いい女!」

私はいつまでも、威張って君達の姉でいられるように、精進していく所存である。

かわいい妹分、弟分達に幸多からん事を祈っている。

_ ジグソーパズル 2002-04-01

壁が見えないと、部屋が狭くなるので持って来てはいないが、実はジグソーパズルをいくつか作っていた時期があった。

先日、その箱だけを人に発見されて、驚かれたので驚いた。

「あんな根気を必要とするもの・・・・・」と呟かれたりした。

でも、言っておく。

私はパズルを持っているし、作っていたとは言ったけど「作り上げた」とは言っていないのである。

高校生の頃だったろうか。

己の根気のなさに嫌気がさし、「自己訓練に」と始めたのがきっかけだったりする。

根気がないことを自覚しているわけだから、少ないピースのものからチャレンジすればいいのに、1000ピースから始めてしまうあたりが、「さすが私」と言えよう。

当然のように、亀の歩み以下のスピードでしか進んでいかない。

放置されすぎていて、たまに双六のように「スタートに戻る」という事態も起きたりする。

しかし、本人は至って平気だったりする。

「“いつか”出来上がるさ」ってな感じである。

父は私とは反対で、こういったものが得意で、最終的には父が我慢できなくなって、いつの間にか父が作ってしまうのである。

つまり、「作り上げた」経験を私はもたない。

結局、その性根は今も変わらないままで、私には根性とか根気とかが著しく欠けている。

あの時、手伝ってもらわなければね~。

根気も根性も培われていたかもしれないのに。

ねぇ、お父さん?

_ お花見で悩んだりする 2002-03-31

私の手話のレベルを英語のレベルで言うと、中学校の一年生ぐらいのものです。

当然、大学生のレベルや大学院生のレベルの方から見れば、まだまだで、見ていて危なっかしい気がするのかもしれません。

ですけど、中学一年生のレベルでも、海外に行くことは出来ます。

住んで、生活する事も出来ます。

分からない事はその都度習えばいいと、私は思っています。

幸いに、私は先生と個人的に話す機会に恵まれてきました。

ですから、通訳者がいなくても、一対一でろうあ者と話すことに抵抗はありません。

初めて会う方なら、きちんと「私は勉強を始めて一年ですから、ゆっくり表現してもらえますか」とお願いするようにしています。

そうすれば、大して問題はありません。

話の内容の全てを訳せなくても、知っている単語を拾い上げて、大筋をつかむ事が出来れば会話は成立するからです。

今日は、手話の会のお花見でした。

初めて会う通訳の方が、親切で、ずーっと通訳してくださるんです。

お心遣いはありがたいんですが、それじゃ勉強にならない。

私と相手のろうあ者の信頼関係が確立できない。

正直言って、ちょっと参ってしまいました。

お気持ちは本当にありがたいし、手助けがなくてもわかると断言出来るわけじゃない。

そんなに過信はしていません。

でも、分かったフリはしていないつもりです。

意味をきちんと取る必要のある単語は、話を中断してでも「ごめん、今の手話表現の意味は何?」と聞くようにしています。

だから、あたたかく見守ってほしいなぁ・・・と思ったりして。

それって、生意気なんでしょうか?

あと、なんか話しに積極的に参加しろと強要されると、嫌な気分になります。

自然にしてればいいじゃないかと思うんですよね。

つくづく、私には団体行動が向かないな~と思ったりして。

こんなんで今年度の活動は大丈夫なんだろうか、などと手話自体以外で妙に頭を抱えてしまった、お花見でした。

_ 伝達すること。 2002-03-30

手話奉仕員養成講座の打ち上げがありました。

料理も美味しかったし、お酒も美味しかったし、大変楽しかったです。

ただ意外な事に、実は自分がこの講座の中で、年下の方であった事実が発覚しまして、ちょっとびっくりだったりしました。

みんな年齢不詳なんですもの~><

打ち上げに行く前に、先生と明日のお花見の買い物に行きました。

私がいなくても、別にそう困るわけではないとは思うんですけど、レジで領収書を頂くときとかはやっぱり通訳がいた方が便利なのかな~と思ったりしました。

(とは言っても、私も『領収書』って単語を知らなくって、「え?何?」とか普通に言ってたんですけどね)

ある意味において「不幸」ではないけど「不便」なんだろうな、と思ったりします。

でも、当然のことなんですけど、ろうあ者の中でも個性がある。

人見知りをする人とそうでない人と。

いろいろな「不便」を克服できるかどうかって、その辺りにも左右されるかもしれないなぁと思ったりして。

伝えようという意思があれば、大抵のことは「言葉」が分かろうと分かるまいと伝わるんですよね。

ただ、込み入った話になると、なかなか難しかったりもしますが。

基本は「私はあなたの事を理解したい」

この一言に尽きるのかもしれません。

_ 大人と子ども 2002-03-29

今週で終わってしまったのだけれど、朝日新聞の月曜日に掲載されていた漫画家・石坂啓のエッセイが気に入っていた。

ご自身の子どもとの係わりを書いてあるのだ。

最終回は、「子の『見ごろ』は短くて」というタイトルが入っていた。

大人はみな、自分を一人前だと思っていて、子どもを半人前だと思っている。

でも、大人がハイハイをしている赤ちゃんと同じ動きをすれば、きっと負けてしまう。

歳相応の完成度があるのだ。

大人自身だって、成長の過程にいるのだ。

だから、年齢に見合わない完成度を求めて、今の子どもの魅力を見落としてはもったいない。

そういう、話であった。

さて、我が身をここで振り返る。

私は、一体どこに属するのだろう。

私は親は持っているが、子は持たない。

でもおそらく、私が「自分は子どもである」と主張しても、社会は認めてくれないだろう。

では「大人である」と言えるかというと、また違う気がするのである。

子を持てば「大人」かというと、それもまた違うと思う。

まぁ、とどのつまり、どちらでもないのであろう。

ただ、「大人になりきれない子ども」よりも「子どもに戻れない大人」の方がいいと思うようになった分ぐらいは、大人に近づいているのかもしれない。

トトロで言うと、私はもう「まっくろくろすけ」を見ることが出来ない方に属してしまっているという事実は否定できないのだ。

それでも、「子ども」の部分を残しながら「大人」になっていきたいものだと思う。

最終回のエッセイの最後にこんなことが書いてあった。

拾ってきた石をポケットから出して、「はい、ママへのプレゼント」。

一体どういう発想でママが喜ぶと思ったかは分からないが、喜ぶしかない。

「わー、ありがとう」

「大人」だなぁ、と思う。

私は「喜んだフリ」も出来ないだろう。

でももちろん、叱る事も出来ない。

「さて、私ならどうするだろう」などと、今も考えている。