へびあし。

サイト名通り、「蛇足」な日々を書き綴ります。
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_ 「もういい」 2005-03-29

朝っぱらから、Qちゃんと険悪なムードに。

でも、ケンカにはならない。

それっていいのだろうか?

黙り込むQちゃんを見ていると本当に不安になる。

溜め込んだものをどうするのだろう、と。

「もういい」と言って、本当に「もういい事」にしてしまえる人を私は知らない。

「もういい」という人は多いが(自分を含め)、それは「今はいい」という事であり、未来永劫ずっと「もういい」訳ではない人がほとんどだ。

そして、いつかもう相手がすっかり忘れてしまった頃にそれを思い出す人が多い。

私は、これといって自慢のない人だが、「会話」についての記憶力がいい方だと思う。それもかなり。

たまに、「あなたは○月中旬の曇った日に、○○駅の3番ホームでその件は「もういい」と言ったではないか」と切り替えしてやろうか、と思うことがある。(大抵の場合において、「もういい」などという台詞を吐かれる時は、揉めているという事なので、いつもより記憶は鮮明)

話は逸れたが、本当に(くどい様だが自分を含め)「もういい」という台詞はこの世で信用ならない台詞の上位に入る。

どうしようか、としばし考えて、もういいのであればいいや、と思う。

ケンカにもならないとは本当に悲しい事だ。それって「言っても無駄」という台詞とイコールだから。

でも、私は家で鬱々としていればいいが、Qちゃんはこれから外に行くのだ。働きに行くのだ。

その人がいいと言っているのだから、これ以上話すのは止めよう。一人でメソメソ過ごそう。

ケンカがしたい訳じゃない。でも、ケンカにもならないなんて、性質が悪い。

解決しない問題は何度でも繰り返す。私は経験で学んでいる。

小さな事だけれど、きっと何度も繰り返すだろう。

だって、ちっとも良くない訳だから。良いって言われた方は、反省もしていないんだから。

でも、今日はこれでいい。

お互いに体調も良くないから、気が立っているだけだと思うことにする。

でも、また同じ事をするのだろうな、と思う。これは予言。

3/29お弁当

_ 写真のこと 2005-03-28

写真を撮るのが好きだ。

写真を撮るのが好きなのだな、と気付いてからそう時間は経っていないのだけれど。

写真を撮るのが好きだと思うまでは、写真を撮るのが嫌いだった。

人物を撮るのは、分からないでもない。

でも誰も写っていないものを撮って、一体何が楽しいのだろう、といつも疑問だったのだ。

つまりは、何も見えていなかったという事。

大学生まで、ずっと追われるように生きた。

高校までの年月は一日一日はのんびりとしたものだったが、それでも「何か」に追われているように感じていた。

そして、大学の四年間は本当に追われるように生きた。

毎日分刻みで予定を組み、多くの人に会い、多くの事を語り、多くの事を学んだ。

いつ季節が変わったかなんてわからなかった。そのぐらい忙しかった。

四年しかない、と思っていたからだろう。これを過ぎれば、自由に生きる事が出来ないと思っていた。

そんな怒涛のような四年間の後に、考えていたよりも自由な社会人になった。

仕事はとても忙しく、いつ寝ていつ起きているのかと思うような日々だったけれど、考えていたよりもずっと自由だった。

営業だったからかも知れない(思えば、あの営業生活があるからまともな会社員になれないのかもしれない)。

そして、ハタと気付く。こんなに駆け足でいいのだろうか、と。

そんな時に親しくなった人から、俳句を教わるようになった。

教わったのは、ほんの僅かな時間ではあったけれど、夢中になった。

俳句といえば、難しく考える人も多かろう。私もその一人であったし、本当は難しいものかもしれない。

でも私がその僅かな時間に教わった事は、一つの「言葉遊び」であった。

日常の変化に気付き、それを表現する。ただし、直接的に表現するのではなく、わざと比喩を用いたりする。

同じ感性でしか感じられない表現にする。

それが私の教わった俳句だった。

本当に奥の深いものだから、私の理解なんて大したものではないのだけれど、それでもとても新鮮だった事は間違いない。

文学部出身である私にとって、表現とは「同意を得るもの」だったから。

多くの人に共感を得られるように表現するというのが、常に論文等でも求められ、ある意味「説得の文章」であり「説得の表現」が主流だと思っていた。

それとは異なっていた事が新鮮だったのだ。

そして、いざ作ろうとする時に必要としたのは、「気付き」なのだ。

変化に敏感な心、感性、そして、その表現力が求められた。

そういう目で自分の身の回りを見ると、多くのものが色鮮やかに見えた。

新しく芽吹く命、去っていく季節、走っている車の音、人の声という音。

それらが全てくっきりとした輪郭を持って、私の前に現れたような気がした。

それを謳う。

それでも追いつかなくなった時、私が表現の媒体として選んだもの。

それが写真を撮る事だった。

今はデジカメを使うことがほとんどだけれど、アナログの方が好きだ。

どんな風に撮れているだろうというワクワク感は何ものにも変えがたい。

思っていたものが表現されている事なんて、ほとんどない。所詮は素人だ。

それでも光の加減で紙焼きならではの、面白いものが切り取れていた時は思わずガッツポーズをしたくなるほど。

そういうわけでやっと撮り溜めた「私以外の人にはどうでもいい」写真をUP致しました。

お暇な方は見てやってくださいまし。

私のかわいい相棒達。どちらも30年もの。

フラッシュはないし、近くは撮れないしで、もうとてもかわいい(今の使い捨てカメラの方が高性能)。

でも、一眼レフの方のきりりとした写真は美しい。もちろん、デジカメもかわいいけど。

カメラ

3/28お弁当

_ 振り返り、気付く事 2005-03-27

成育環境というのは思ったより、今の自分にも影響を与えているのだな、と痛感する事がある。

私は、いくつかの場所を移り住み育ったけれど、どれも緑の多い、田舎であった。

子どもなりに落ち込んだり、悲しんだりしたりする事もあったけれど、それでも春の花を愛でて心が癒されたり、夏に向かう緑に目を細めたりして日常を過ごしてきた。

今、私が住んでいる所は、身近な場所に緑のものが本当に少ない。

だから、時折、とても息苦しくなってしまう。

言いようもない不安に駆られたり、気持ちが不安定になったりする。

東京にいた時よりもいいでしょうといわれるかもしれないが、実は国立市は駅から遠く離れていたせいもあって本当に緑の多い場所だった。

部屋には暑い位に陽が入り、ベランダから大きな木が見えた。

たったこれだけのものに私はいつも癒されていたのだと、今の生活になって気付いた。

生き生きした緑のない生活は、人から、もしくは私のような成育環境だった人間から、元気を奪う。

体は健康(でも逆流性食道炎だけど)でも、心の元気は別のことなのだな、と思う。

午後、用事があって、実家に寄った。心底、ホッとしている自分に気付いた。

実家だからだろうか、としばし考えて、そうではないと分かった。だって家を出て5年になるが、一度もそんな事を思ったことがなかったから。

今の生活以外はどこも緑が身近にあった。

つまり、実家は緑に囲まれていて、小さくなっていた自分の気持ちが元気になったのだと気付いた。

今のおうちを好きになるしかない。(その事以外に不満はない。本当に便利な立地だし)

それは分かっているので、せっせと種を植え、緑を増やす事にしよう。

ただ、願わくば、子を持つ事があれば、もっと違う環境を与えたいな、と思う。

そして、そんな事を考える自分に驚き、戸惑う今日この頃。

_ 何といいますか 2005-03-26

また、Qちゃんが寝込んでいます。

うちの姫ってば、本当に繊細。

労わりたいと本当は思っているのですが、何分に「土日しか遊んでもらえないのに、何で寝込むんだよー」っていう休日を楽しみにしている子どものような発想で、何だかブチブチと言ってしまいます。

いけないなーと反省。

どこか気持ちの中で落ち着かないから、体調に変化が起きているのでしょう。

でも慣れていかなければいけない事もあるし、慣れなければ自分以外を変えていかなければいけないので、体調と気持ちとちゃんと向き合って欲しいと思います。

話下手のQちゃんから、話をしてもらう事は本当に難しい事ですが、私もイライラせずにきちんと聞ける体制を作るようにしなければ。

そんな朝に、Qちゃんの友達から家に電話がありました。

東京にいる時から何度か一緒に飲んだりとかしているので、私とも十分に顔見知り。

ただ、うちは何度か悪戯電話が続いたため、名乗らずに電話に出るので、ちょっとおっかなびっくりされてしまいました。

すまん。

結婚のお祝いを頂いていたので、ちょっとしたお礼をさせていただいたのですが、それが着いたという連絡でした。

どうでもいいような話を数分して、Qちゃんと変わりました。

電話を切った後、Qちゃんに「オレの友達とは思わなかったー」と言われました。

私が和んで話していたからでしょう。

何でもないことだけれど、私はこの事が本当に嬉しかったのでした。

これだけ携帯が普及していれば、携帯に連絡すれば、間違いなく本人が出ます。

でも、自宅にかければ、当然私が出る可能性があるわけです。

それでも電話してくれるというのは「私が出てもいい」と思ってくれているからなのです。

それって、すごく嬉しい。

私は、Qちゃんの大事な友達は大事にしたいし、私の友達にもなって欲しいと思っている。

だから、いつもQちゃんに言うのは「友達の前では<嫁>とか<奥>って言わないで」という事。

Qちゃんの奥さん、と認識されるのはとても悲しい事です。私個人を見て欲しいし、それで友達になれれば、尚嬉しい。

だから、私の友達にも「Qちゃんを<旦那さん>って呼ばないでね」と言います。Qちゃんとして個別認識して、友達になって欲しいのです。

そういう事が積み重なって、誰でも気安く遊びに来てくれる家庭が作れるのではないかと思っているのです。

自分達の時間もちゃんと大切にしたいけど、大切な人たちとの時間もちゃんと持っていたい。

出来るだけ、大切な人たちがノックしやすい家庭を作りたいと思っています。

なぜならば、私は多くの友人達に支えられてきて今があるし、それを伝えて広げて、深めていけたらとても嬉しい。

心を開いてくれない人とは友達になれません。

だから自分からは出来るだけ心を閉ざさず、まず受け入れる私でありたいと思っています。

そういう意味で、本当に嬉しい電話なのでした。

ありがとう。

夕方、ちょっとだけ調子が戻ったQちゃんと買い物へ。

どうしたら、元気になってくれるのかな。

とりあえず、私は食生活でそのお手伝いをする事しか出来ません。

その状態を改善したいと思うかどうか、またその努力をしたいと思うかどうか、これはQちゃんの心次第だからです。

優しくする事はとても簡単な事だけれど、怒っているというのは、時に悲しいという事と同じ意味を含んでいると伝わればいいと思うし、伝えなければいけないな、と反省する一日でした。

_ 今日からいよいよ 2005-03-25

愛知万博が始まります。

色々と新しい試みもあるようで、ニュースを聞くだけでもワクワクします。

人ごみも大嫌いだし、並ぶのはもっと嫌な私ですが、それでも「行ってみたいな」と思わせるものがあります。

きっと、TVのある家庭では尚更でしょうね。

そんな中で、ずっと気になっていた事。

下記記事参照。

http://www.shikoku-np.co.jp/news/photo_win.aspx?id=20050311000388&no=1

http://www.asahi.com/politics/update/0312/001.html?2005

不思議

これに会いに行きたいと思っています。

そして、同じようなアングルで写真を撮って欲しい(切望)。

3/25お弁当